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金田一耕助図書館5F 横溝正史作品の源流を探る
金田一さんと歌舞伎

神戸に生まれた横溝正史は、少年の頃、実家の生薬屋の売り上げ金をごまかしてまで、新開地の芝居小屋に通いつめたといいます。
後に探偵小説家として数々の作品を世に送り出すことになるのですが、その作品のモチーフや挿話などに、好きな芝居の影響が見られないはずがありません。
このコーナーでは、主に金田一シリーズに表われた、横溝の歌舞伎趣味を挙げていくことで、横溝作品成立の秘密に迫っていきたいと思います。
ものが歌舞伎だけに、大見得を切ってみました…なんちゃって。
 
 
獄門島 車井戸はなぜ軋る 黒猫亭事件
悪魔が来りて笛を吹く 夜歩く 八つ墓村
女怪 犬神家の一族 女王蜂
幽霊座 三つ首塔 霧の中の女
赤の中の女    
 
黒猫亭事件
鈴ヶ森
(浮世柄比翼稲妻<うきよがらひよくのいなづま>・幡随長兵衛精進俎板<ばんずいちょうべえしょうじんまないた>
「居候のことを権八というそうですが、この権八はごらんのとおりで、綺麗ごとにはまいりません。第一、長兵衛との出会いからして悪いや、本来ならば権八のほうが、スッタスッタとむらがる雲助どもをなぎ倒す。その腕前に惚れこんで、長兵衛がつれてかえるという段取りであるべきところ、時勢がかわると雲助退治は一切長兵衛にまかせておいて、権八は戦々兢々として、ふるえているのだからだらしがない。そのかわり、小紫の如き女性はあらわれてくれませんから、まあ、罪のないほうです」(黒猫亭事件)
江戸で名うての大親分、幡随院長兵衛と前髪立ちのおたずねもの、白井権八(実名は平井権八)。当時の江戸を騒がせた、「時の人」同士が顔を合わせていたらという想定で作られたのが、「鈴ヶ森」の邂逅の場面。
 
国元の鳥取で人を殺めた白井権八は、江戸に出奔してくる。権八を捕らえてお上に突き出せば、褒美の金にありつけるというので、雲助どもが襲いかかるが、白井権八、歳は若いながらもめっぽう強い。
ある者は腕を切り落とされ、ある者は切られた脚を拾って逃げる、またある者は顔をバッサとふたつに殺がれ、スケキヨのような真っ赤な顔で退場と、無惨ながらもおかしみのある立ち回りを披露するのだ。
そこに通りすがった幡随院長兵衛、水際立った権八の腕前にすっかり惚れこんでしまう。
「お若えの、お待ちなせえやし」と権八を引き止め、江戸での庇護を約束するのである。
 
金田一耕助は、まだ元服前の美剣士、白井権八に自分を例えてしゃあしゃあとしているのだから、読者はここで吹き出してしまう。
ただし、風間長兵衛は金田一権八の腕っぷしを見込んだのではなく、その頭脳に惚れこんでいたのが追い追いにわかってくる、心憎い仕組みだ。
 
この芝居の舞台となるのが、処刑場として名高い鈴ヶ森の供養碑の前。すなわち現在の大森から品川にかかるあたりの場所である。江ノ島から江戸に戻る途中の長兵衛は、すぐ手前の大森駿河屋で借りた提灯をかざしている。
風間俊六と再会した金田一がつれていかれたのは、大森の山の手にある割烹旅館「松月」。
横溝が金田一の居候先を大森という土地に設定したのも、二人の再会を「鈴ヶ森」の芝居になぞらえたお遊びの延長だったのかもしれない。
 
なお、史実では幡随院長兵衛は白井権八が産まれる前に謀殺されており、顔を合わせることはなかった。
 
伊勢音頭恋寝刃<いせおんどこいのねたば>
「あら、旦那……まあ、旦那でしたの」
きれいに打ち水をした玄関の沓脱ぎで、風間が靴の紐をといていると、あわてて奥からとび出したのは、
伊勢音頭の万野みたいな女中頭であった。
「ああ、おちかさん、――あれはいるだろうね」
(黒猫亭事件)
「松月」の女中頭のおちかは、伊勢音頭の万野<まんの>みたいな女だという。
当時の読者は、これだけでおちかが典型的な女中であるとイメージすることができたのだ。
 
万野は、伊勢の遊郭「油屋」の仲居だが、主人公の福岡貢
<ふくおかみつぎ>につらくあたる意地悪な役回りである。
福岡貢は、主家再興のため、盗まれた名刀「青江下坂
<あおえしもさか>」を探し求め、ついに名刀を取り戻した嬉しさから、恋仲の油屋の遊女お紺に会いに来るのだが、お紺を他の客と添わせたい万野には、貢が邪魔である。
万野は貢にお紺はいないと嘘をつき、ブスのお鹿をあてがう。それどころか、お鹿には以前から貢の名前で恋文を送り、金をせびっては着服していたのだ。
そうとは知らぬ福岡貢、つれないそぶりにお鹿がその不実をなじるが、貢にとっては身に覚えのない言いがかり。お鹿に文を言伝たのは万野と知るが、万野は知らぬ存ぜぬの一点張り。
さらにやっと会えた恋仲のお紺は、貢の探す青江下坂の折紙(鑑定書)を持つ悪人岩次に近づくために、岩次の前で貢に愛想づかしをする。
複雑な筋がからみ合い、腹に据えかねた福岡貢は、万野と言い争ううちに、これを斬ってしまう。
名刀青江下坂は、実は血を求める妖刀で、貢は刀の魔力に引きずられ、次々と人を斬り殺してしまうのだ。
 
仲居万野は嫌な女の役なので、元来は立役
<たちやく>(男役を演じる役者のこと)の役柄だったが、最近は女形が演じることが多くなり、その際、実は万野もまた貢に惚れている色気を出すことになっているらしい。セリフや物語の展開ではいっさいフォローされていない感情なので、役者の仕草や型でそれとわからせる工夫が必要となるわけだ。
近年では、片岡仁左衛門の福岡貢に、坂東玉三郎の万野が当たり役として有名である。
 
話を元に戻して、万野みたいだといわれた「松月」の女中頭おちかは、決して風間やおせつ、金田一に意地悪をしたり小金をだまし取ったりするわけではない。
多少口やかましく、下の者には厳しく、上の者には腰が低い面もあるかもしれないが、おせつの片腕となって「松月」を切り盛りする様が、まるで絵に描いたような、芝居に出てくるような典型的な女中だという程度の意味であろう。
 

悪魔が来りて笛を吹く
東京劇場(東劇)<とうきょうげきじょう(とうげき)>
「母はつい最近、父にあったというんです」
「お父さんにあったって? いつ、どこで?」
「いまから三日まえ、二十五日の日でした。母は菊江さんと女中の種をつれて
東劇へいったんです。母たちの席は平土間のまえのほうでしたが、幕間に何気なくふりかえると、二階の最前列の席に、父が坐っていたというんです」
「菊江さんは東劇よ。明日の切符でなくってよかったと、昨日このお席であんなに喜んでいたのを聞いてらしたじゃありませんか」(悪魔が来りて笛を吹く)
旧・東京劇場(昭和17年頃)
戦争は、多くの文化施設を破壊した。
昭和20年、空襲により明治座、新橋演舞場など名だたる劇場が次々と焼失し、5月25日には、ついに歌舞伎興行の本丸である歌舞伎座も、外殻を残して内部が全焼した。
(余談であるが、当時築地に住んでいた俳優の加藤武は、焼け落ちる歌舞伎座を目の当たりにしている)

戦後、歌舞伎公演を行うことのできる劇場は、東京劇場ほか、ほんの一握りとなってしまった。本作では、そんな世相を反映して、芝居見物も東劇に通うことになっている。
(ただし、本作をドラマ化した「横溝正史シリーズ」では、説明の煩雑さを避けるためであろう、丸焼けになったはずの歌舞伎座の呼称が使われていた)
現在の東京劇場
(右の写真と同じ位置から撮影)


東劇は、歌舞伎座とはほぼ筋向かいに位置している。
戦中の東劇の写真には、右手に手すりのようなものが写っているが、これは万年橋の欄干である。
当時は、歌舞伎座と東劇の間には築地川が流れていた。この川が、空襲による延焼を防いだのだろう。

ところで、椿家の女性たちが、東劇内で死んだはずの椿元子爵を見たのが昭和22年9月25日、そして玉蟲元伯爵が亡くなったにもかかわらず、菊江が東劇に出かけたのが、同年10月4日のこと。
この日の切符は、椿夫人あき子の乳母、信乃も持っていた(ということは、当然あき子夫人も持っていたとみるべきだろう。そうでなければ、黙っていても芝居に出かける信乃にわざわざニセ電報を送る理由がない)とあるので、元華族の付き人たる者、食うに困っても十日に一度のペースで観劇に出かけるものらしい。
もっとも史実では、9月の東劇の催しは文楽(人形浄瑠璃)だったので、文楽と歌舞伎はベツバラという意味なのかもしれない。

菊江が観に行った演し物については、次項を参照のこと。
六世尾上菊五郎(1885-1949)<ろくせいおのえきくごろう>
「そうそう、菊江さま、奥様がお待ちかねでございます。お芝居のお話をお聞きになりたいんですって」
「そう。でも今日の芝居、面白くなかったわ。
菊五郎がすっかり元気ないんですもの」(悪魔が来りて笛を吹く)
「横溝正史シリーズ」では、上のセリフは「六代目、ちっとも元気がないんですもの」となっていた。
六代目といえば、現在でもこの六世尾上菊五郎のことをさす。
六代を名乗る役者は数知れず存在しても、名前の大きさ、役者の大きさで菊五郎にまさる者はないということ。まさに、大正・昭和を代表する名優だったといえよう。

その稀代の名優も、昭和22年頃には気力体力ともに消耗しており、出来不出来が激しかったと記録にはある。
六代目菊五郎の娘と結婚した十七代中村勘三郎の追想によれば、「鈴ヶ森」(上記項目を参照)の白井権八を務めていた六代目が、
「ある日なんか、よっぽどつらかったのか、舞台へペタッと坐りこんじゃったんですからね」(関容子「中村勘三郎楽屋ばなし」
という醜態を見せたというのだ。昭和22年7月の東劇でのことである。
それから2年後の昭和24年7月10日、名優六代目尾上菊五郎は、64歳でこの世を去る。

「悪魔が来りて笛を吹く」は、昭和26年11月より連載が始まっている。本作執筆時には、六代目菊五郎はとうに亡くなっていることになる。
横溝正史は作中に菊五郎の名を登場させることで、この名優の追憶をこめていたのかもしれない。

ちなみに、まったくの蛇足であるが、菊江が東劇で菊五郎を見たと主張する昭和22年10月4日、当の六代目尾上菊五郎は東劇ではなく有楽座に出演していた。
このときの演し物は、創作歌舞伎「くさまくら」、「道行初音旅(義経千本桜)」、「芝浜革財布」とのこと。
また、記録では東劇は10月4日は休演日だったので、菊江が芝居を見に行った劇場は、有楽座だったのかもしれない。
 

女怪
傾城阿波の鳴門<けいせいあわのなると>
「先生、何をぼんやりしているんです。え? 仕事が出来なくて弱っているって? そうあなた、机に向かってたばこを吹かしていちゃ、仕事もなにも出来るはずはありませんや。たまにゃ環境をかえなきゃ……先生、旅行しましょうよ。どこか静かな、人気のない温泉場へでも旅行しましょう。費用……? は、は、は、キナキナしなさんな。金は小判というものを、たんと持っておりまするだ」(女怪)
「傾城阿波の鳴門」で、子役のおつるがいうセリフ「金は小判というものを、たんと持っておりまする」が元になっている。
このセリフはよほど印象に残ると見えて、野村胡堂も「銭形平次捕物控」で、子分の八五郎から近ごろ銭を投げないのは、懐具合が寂しいからではとからかわれた平次に、
「馬鹿にしちゃいけねえ、金は小判というものをうんと持っているよ。それを投<ほう>るような強い相手が出て来ないだけのことさ」(結納の行方)
と言わせている。
劇評家の戸板康二は、著書
『すばらしいセリフ』の中でこのセリフと「伽羅先代萩<めいぼくせんだいはぎ>」の「腹がへってもひもじゅうない」というセリフを、「子役独特の口調でいうセリフとしては〜双璧であろう」と述べている。
 
盗まれた家宝の名刀を探すため(まただ)、盗人に身をやつして探索を続ける阿波の十郎兵衛と女房お弓。
二人が隠れ住む大坂で、お弓は巡礼姿の娘・おつると出会う。おつるの身の上話を聞くうちに、お弓はこの娘こそ、幼い頃祖母に預けたきりの、自分の娘ということに気づいてしまうが、探索のためとはいえ盗人に成り下がっている身で、親子の名乗りはできない。
お弓は泣く泣くおつるを追い返すが、せめてものたむけにと、路銀を手渡そうとする。巡礼おつるは、けなげにもいただいた金を差し戻し、
「金は小判というものを、たんと持っておりまする」
子役独特の高い調子で言うのであった。
 
実はこの後が悲劇となる。
乞食に囲まれていたおつるを再び連れ帰ってきた十郎兵衛が、なんとおつるに借金を申し込む。たんと持っている小判を強請りとろうとしたのだ。
互いに親子とは知らぬ二人、貸せ貸さないのやりとりのうちに、騒ぐおつるの口を押さえた十郎兵衛、その身はいつかぐったりとし、おつるは父の手の中で息絶えるのである。
 
この悲劇があるがゆえに、何ということのない「金は小判というものを」というセリフが、人々の心に残るのかもしれない。
 
さて、成城の先生を訪ねた金田一耕助はよっぽど浮かれていたらしく、「キナキナしなさんな」などと今では歌舞伎でしか聞かないようなセリフまでとびだしている。
おそらく「金は小判というものを」のくだりも、子役独特の声色を真似て「かーねーはァこーばーんとォゆーものをー」などとおどけてみせたかもしれない。
 






(C) 2005 NISHIGUCHI AKIHIRO