Kindaichi Kousuke MUSEUM
【第1シリーズ】
犬神家の一族
本陣殺人事件
三つ首塔
悪魔が来りて笛を吹く
獄門島
悪魔の手毬唄
【第2シリーズ】
八つ墓村
真珠郎
仮面舞踏会
不死蝶
夜歩く
女王蜂
黒猫亭事件
仮面劇場
迷路荘の惨劇

横溝正史シリーズ
「犬 神 家 の 一 族」

1977/04/02〜04/30
(全5回)
「犬神家の一族」イメージ 脚本:服部佳 監督:工藤栄一
配役
犬神松子:京マチ子 / 犬神佐清・青沼静馬:田村亮
犬神佐兵衛:岡田英次 / 野々宮珠世:四季乃花恵
犬神竹子:月丘夢路 / 犬神梅子:小山明子
犬神佐武:成瀬正 / 犬神佐智:松橋登
お清:井上聡子 / かね:野村昭子
橘署長:ハナ肇 / 古舘弁護士:西村晃

「犬神家の一族」評

「何故ですか?
何故犬神家の人達は、普通の人間が持っている温かみや愛情に背を向けて生きておられるのですか!?」
古谷金田一は松子夫人に問うた。
この質問こそが、いまわしい連続殺人事件のすべての疑問を集約しているように思えた。

1977年(昭和52年)4月2日午後10:00、テレビドラマ「横溝正史シリーズ」の放映がスタートした。
「犬神家の一族」を頭に全6作、27週間の長期放映である。
原作者横溝正史は放映前に届けられた「犬神家の一族」全5話に目を通した感想を「真説・金田一耕助」にこう書き記している。
「私はすっかり満足した。原作に忠実でもあり、構成もしっかりしているうえに、監督も一流ならキャストも映画に劣らぬ豪華さである。」
また「ある部分では映画より優れていると思われる節もしばしばあった。」とも書かれている。
原作者がこれほどまでに賞賛する映像が必ずしもすばらしいとは限らないものだが、この作品に関して言えばまさに秀作であると言える。
前年(1976年)の10月16日に封切られた東宝映画「犬神家の一族」の大ヒットで波に乗っている「横溝ブーム」に便乗するかのような安易な作品では決してなく、むしろ同作品というプレッシャーを全身で受け止めみごとはね返したと言っても過言ではない出来栄えである。

一間ほども幅のあろう長く続く廊下、その天井にぶら下がる大正浪漫を思わせる洒落た照明。
中庭に面する引き戸にはスリガラスがはめ込まれ、その一つ一つに犬神家の紋章が施されている。
薄暗い和室は黒塗りの木戸で囲まれ、そこに描かれた血のように真っ赤な彼岸花。
これら邸宅内はすべてセット、デザインといい雰囲気といいかなりの力の入れ様である。
そしてこの黒塗りの部屋から物語の本筋は始まる。

信州犬神財閥創始者、犬神佐兵衛翁がその81年の生涯を閉じる。
佐兵衛を囲む親族。「遺言状は?」と問いかける松子。そして佐兵衛は隣部屋から覗く古館弁護士を指差す。
映画と相違無い流れであるが、古館弁護士はひと通りの説明の後、なんとその場で犬神家の財産目録を読み上げる。
当然の如く隣部屋にそそくさと移動する犬神家の人々。残された佐兵衛を世話する珠世と医者、といったいかにもな構図。
走馬灯のように流れる過去の映像とオーバーラップする佐兵衛の横顔。
そして財産目録が読まれる中事切れる。
肉親の佐兵衛に対する非情の思いがわかり易く伝わる。
映画では松竹梅の3姉妹は、ついに佐兵衛の呪縛から逃れることはできなかった。
しかし、この作品では京マチ子演ずる松子はそれに打ち勝ったように思える。
佐兵衛の遺影の前で青沼親子の写真に火を付けるシーンがある。
「私は勝った・・・」とも思える微笑を浮かべながら、燃える写真を掲げる姿には背筋が寒くなる。
このような形でしか父親の呪縛から逃れる術はなかったのか?
それほどまでに父親を怨んでいたのか?
映画では登場しなかった松竹梅3姉妹の母親の寝室の映像がある。
松子の母親の寝室は、向かい合う両壁に大きな鏡が掛けられた、合わせ鏡の和室である。
佐兵衛が3人の妾にしてきた行為を代弁するかのような造り。
3姉妹の父親に対する非情の思いがうなずけるようである。
一話が約45分として全5話で合計約225分。
当然、映画と比べて内容の濃い詳細な作品になる。
私は、その上回った時間は犬神親子(佐兵衛と松竹梅)のお互いに対する感情を描写することに費やされている気がする。
その感情こそがこの事件の根底であることから考えると、やはりこの作品はすばらしいものであると言える。

映画との細かな相違といえば、まず佐清マスクが挙げられる。
映画のマスクは製造場面もあったが、ただ型にゴムを流し込んだだけの粗悪なものであった。
しかしこちらのマスクは出来が良い。
後頭部を覆うパーツと顔面を覆うもの2枚を顔の輪郭のあたりで繋だように作られている。
前者をワンピースとするならばこれはツーピースタイプである。
そして映画マスクと違い佐清の顔の型でなく能面の顔なのである。
しかも、目は小さな黒目の部分しか穴がないので目の動きもわからずに不気味である。
賛否両論あるであろうが私はシリーズマスクのほうが好きである。
ちなみに原作では、「顔全体の表情が、凍りついたように動かない。不吉なたとえだが、その顔は死んでいた。」となっている。
どちらが近いかは定かでないが、目が覆われていて表情が隠されている分、シリーズマスクのほうが雰囲気を出しているとも思われる。

そして、私が特別な思い入れを持っているものがある。
それは生首である。
誰のものかは伏せておく。
映画のものはドス黒く、苦痛に表情をゆがませ何かを強く凝視する生首であった。
こちらのものと言えば・・・虚空を見つめた視点の無さ、大きく開いた口らしき穴、しかもあまり似てない。はっきりいって出来が悪い。
しかし出来が悪い分、しっかり目が死んでいるのだ。
残念ながら長く写すと詳細がバレるからであろうか、ヤツの出演時間は異様に短い。
3カット程度(次回予告や前回のあらすじに登場する分を含めればもう少し多い)の総時間はよそみをすれば見逃すほどである。
にもかかわらず、私はこの作品を再び見る間約20年、このツラだけは忘れなかった。
珠世の顔は忘れてもコイツの顔は覚えていた。
思えば始めてこのシリーズを見た時、私は例の湖から突き出た二本の脚を期待していた。
映画は見ていなかった、映画館の前に貼ってあるスチール写真で見た光景である。
第一回放映分はその期待に答えてくれなかった。
しかし、私の心は内容で引かれ、エンディングの「幻の人」でガシッと捕まれた。
そして、次回予告でのあの生首はついに、それを引き込んだのである。
「横溝作品とは、いろいろな死体のオンパレードなのか!」という認識が生まれた初めての瞬間であった。
まさにヤツはルーツであり誘いであり、出来の悪い水先案内人であった。
あらためて礼を言おう。

さて古谷金田一の活躍はどうであろうか。
途中は目立った推理をするでもなく、「うーん・・・わからんのですよ。」と頭をかきむしること度々。
しかし影が薄いというわけではなく、冒頭に挙げたようなすばらしい発言を時折ズバッときめる。
「横溝正史シリーズ」全編においての彼は、ガサツにして繊細といった感じであろう。
西田金田一と相通ずる部分がナキニシモアラズ。
着物がはだけて下のランニングシャツが顔を出しているほうが似合っているような共通点がある。
東京の金田一事務所のおばちゃんから、たびたび「早く金を送ってくれ!」「電気が止められた!」「早く帰ってきてくれ!」というデンワが那須ホテルにかかってくる。
物語とは何ら関係ないものだが、古谷金田一の人間性を描写する手段としては有効である。
まったくの庶民にして頭脳明晰な探偵という人物像がこれにより植え付けられる。
映画のような、みんなに惜しまれつつ帰京するといった描写がないのが残念である。

この作品の初回放映日、1977年4月2日はくしくも東宝版「悪魔の手毬唄」の封切り日でもあった。
横溝先生曰く、「記念すべき日」である。
私にとっても、横溝作品に出会えた「記念すべき日」になった。
この「犬神家の一族」がシリーズの初回放映であったことと、テレビを見ることを拒まなかった両親にいたく感謝する。
私の中ではこれ以上の作品が登場することは有り得ないが、反面いつまでも期待しているようにも思える。
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