Kindaichi Kousuke MUSEUM

更新履歴

事件簿編さん室

金田一耕助図書館

金田一耕助視聴覚室

金田一さんの現場検証

展示室:木魚氏の蒐集品

木魚のおと
├金田一耕助伝
│ ├生立ち編
│ ├引越しの謎
│ └等々力二世
│ 
雑誌「バラエティ」
固有名詞の読み方
金田一カルタを作ろう
20代目金田一は誰?
ページ数順事件簿
│ 
└珍説・金田一耕助
  ├八つ墓村
  ├山崎夫妻
  └病院坂の首縊りの家

リンクターミナル


 

金田一耕助伝:生立ち編
 
「なるほど、それじゃくにのおふくろに相談してみましょう。おふくろがいいといえば、ひとつ見学させていただきますかな」
「先生、ご両親はご健在で?」
的場英明がたずねた。
「いやあ、とっくの昔に墓の下。だからこんな浅ましいショウバイしてられるんです」

(『仮面舞踏会』角川文庫 P.359より)
 金田一耕助が自分の親について語ったのは、全作品中ここだけである。
 このわずかなやりとりから、彼の生い立ちを推論してみよう。

 まずはっきりするのは、耕助の両親はどうやら彼が「浅ましいショウバイ」である探偵業に就く以前、即ち昭和11年より前に死亡しているらしいことだ。
 学生だった耕助が、渡米する資金は調達できていながら、アメリカでは皿洗いをするなど相当苦労していることから、亡くなったのはその前後のあたりと考えられる。すなわち渡米資金は、両親の遺産だったのだ。

 また、許しを得る対象として、「おやじ」より先に「おふくろ」と口をついて出たのは、母親への依存が強いことの顕れだろう。このことは、耕助の母親が厳格に耕助を育てたことを意味している。
 あるいは父親不在の家庭だったとも考えられる。もしそうだとしたら、地方の閉そく的な社会で暮らしていた耕助母子は、相当みじめな思いをしたに違いない。だから母親はより一層、どこへ出しても恥ずかしくない息子に育てようとした。彼が非常な「どもり」なのも、この幼時体験が影響しているのではないだろうか。
 尋常小学校を出たら就労させられる児童が多かった中で、最高学府である大学にまで進学できたのは、耕助の家が裕福だったというよりも、母親の意地がかかっていたと解釈した方が良さそうである。
 ただ、たとえ母の意地であったとしても、母子家庭だったとするには資産面で問題が残る。耕助を東京の大学へとやったお金だ。在学中に歌舞伎の会に入ったり、映画館に入りびたっていることなどからも、当時の耕助は、苦学生からは程遠かったことが推測されるのだ。

 ひとつの仮説として、耕助の母が未婚であった場合、つまりその頃の言葉でいう妾であったと考えたら、辻褄が合いはしないだろうか? 認知できぬ子であったから、父親はいっそう金銭的援助を惜しまなかった。兄弟や親戚一同が作品中に登場しない理由も、これなら説明できる。
 後に、耕助が大森の割烹旅館「松月」に居を構えて平然としていたことや、夜の蝶や踊り子達にやけに同情的であったことなどから、彼の母親も同業あがりだった可能性も考えられる。耕助が「浅ましいショウバイ」につくのを母が嫌ったのは、彼女自身が「浅ましいショウバイ」をしていたからではないかというわけだ。

 明治・大正にかけて、盛岡の花柳界は黄金時代を築いていた。耕助の母親も、座敷の席で土地の有力者に見初められたという説は、やはり強引だろうか?

 なお、「耕助」という命名から、彼を農家の出であるとする説も根強い支持を受けているが、農作業の手伝いをしていたにしては、耕助はやや華奢であるのが気にかかる。
 耕助という名は、時節柄「日本国を耕す助けとなる者になって欲しい」と、母が願いを込めて名付けたとは解釈できないだろうか?
 
 

(C) 1998-2005 NISHIGUCHI AKIHIRO