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珍説・金田一耕助:『八つ墓村』もうひとつの読み方
 
※ この項は、横溝正史『八つ墓村』のネタばれをしています。未読の方はくれぐれもご注意下さい。

 ネタばれの楽しさは、トリックや伏線について語ることばかりではなく、ラストで明らかになる意外な人間関係についても自由に話し合えるというところではないでしょうか。

 そこで、『八つ墓村』の読み方がガラリと変わってしまうかもしれない、ある符合を紹介します。

 主人公、寺田辰弥の「本当の」父親は、寺田虎造でも田治見要蔵でもなく、母鶴子の思い人、小学校の訓導亀井陽一でしたね。つまり、要蔵による鶴子強奪がなければ、辰弥は「亀井」辰弥としてこの世に生を受けるはずだった、このことを頭の隅にとどめておいてください。

 中国地方で亀井、といえば、思い出されるのが戦国時代の尼子家の重臣、亀井茲矩(コレノリ)です。
 彼は、山中鹿之介の妹をめとり、鹿之介と共に尼子家再興に尽力しました。尼子滅亡後は羽柴秀吉の中国征伐を支援し、本能寺の変における秀吉の中国大返しでは功績を残し、褒美に「宝の山」である琉球国を所領として望むなど、野心的で利に長けていたようです。
 そのおかげで亀井氏は、徳川時代には代々津和野の領主をつとめ上げ、江戸末期までその名を残しました。

 横溝正史はこの、亀井姓についての奇妙な一致を認識していたでしょうか? つまり、寺田辰弥の父の名に亀井という苗字を持ってきたのは、それが尼子家ゆかりの姓であることを承知の上でのことだったのでしょうか。
 もしも横溝正史が、亀井陽一と尼子家臣の亀井氏との符合を計算ずくで命名したというのなら、田治見要蔵の三十二人殺しは「尼子の重臣」亀井の子孫である、陽一が原因で引き起こされたことになります。また、その後の連続殺人事件も、亀井陽一の息子が村に帰ってきたことから巻き起こった事件です。横溝正史は、尼子氏の怨念による復讐譚を目論んでいたと言えるのです。

 この推測は、あながち的外れとも言いきれないのです。横溝正史が幼いときから馴れ親しんだ草双紙は、そのほとんどがこの手の因縁話でした。かれ自信、こういった筋書きは嫌いではなかったらしく、因縁、因果、輪廻などをテーマとした作品も数多く書いています。
 たとえ、歌舞伎役者と同じ名を持つ梅幸尼同様、この命名がほんの遊びごころだったとしても、また単なる偶然の一致だとしても、作中、作者によってこのような深読みができる地雷を仕掛けられたという事実は残ります。

 つまり『八つ墓村』は、探偵小説のスタイルを借りた、尼子と田治見の四百年にわたる因果物語の最終章という読み換えが可能なのです。
 最終章、ということばをあえて用いましたが、それはこの物語が、単なる尼子一族の田治見家に対する復讐譚ではなく、両家の和解の物語となるからです。
 尼子の落ち武者たちが必死に隠した軍資金を掘り起こしたのは、本論でいう亀井氏の末裔、辰弥です。辰弥はその軍資金を手に入れる代わりに、田治見の血筋である里村慎太郎に田治見家の相続を譲ります。これは、連続殺人で最後の人柱を供出した田治見氏に、見返りとして尼子氏が与えた所領安堵とはいえないでしょうか。
 そして尼子を代表する「亀井」辰弥は、田治見の血を引く典子と結ばれ、子をなします。これが両家の和解でなくて、何でしょう。
 八つ墓村で起きた連続殺人は、両家の和解および四百年にわたる因果の清算のための代償だったわけです。

オマケ:「落ち武者の人数はなぜ八人だったか」についての一考察(77年松竹映画「八つ墓村」レビュー)
 

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